独白

しがない大学生の独りよがりな独り言です

「一人一人が変われば社会は変わる」は迷信だ。

「一人一人が変われば社会は変わる」は迷信だ。

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「社会はある問題を抱えています。この社会問題はひとりひとりが抱える問題が集まってできています。だから、『ひとりひとり』が変わっていくことでこの社会は変わっていきます。」

このような論理が世間に溢れている。実際、自分もある時期まで「ひとりひとりが変われば社会は変わる」という思想を持っていた。

しかし、現在は違う。
「社会はある問題を抱えています。この社会問題は『ひとりひとり』とそのひとりひとりが作る『関係』の間の不調和です。『ひとりひとり』と同時に『関係』にもアプローチして、その相互作用としての問題を解決することが重要です。」という論理を使う。

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<社会を変えるとは何か>
 「社会を変える」には本当にいろんな意味合いがあるが、ここでは「社会の問題・課題を解決すること」くらいの意味合いでとらえる。

<社会とはなにか>
 社会は多様な意味で使われるが、ここでは「思考や感情を共有し、生活を共にする共同体」として捉える。個人の人間が結合して共同体を作り、それが社会にあたる。もう少し落とし込んで表現すると、社会は「ひとりひとり」とその間にできる「関係」である。

 しかし、それは単純な足し算ではない。もっと複雑な構造をしていて、引き算、掛け算、割り算も入り混じっている。最初に「ひとりひとり」があって、「関係」ができる。そしてその「関係」が「ひとりひとり」に影響をする。僕たちはそういう「関係」である人と人との「間」に生きている、「人間」である。

<「ひとりひとり」と「関係」>
 人間は生まれる前から「関係」の中で生きている。お母さんとへその緒でつながっているという関係を持つ。日本では助産師さんや産婦人科のお医者さんに手伝ってもらい産まれることで、次の「関係」が生まれる。そして年を重ねるごとに、お父さんやおじいちゃん、隣の家の子ども、公園で会うお友達のお母さん、学校のクラスメイトや先生、部活の先輩や同期、バイト先の店長、就職先の上司などと、徐々に自分と世界、自分と誰かとの「関係」を築き、その「関係」の中で生きて行く。

 そして、「ひとりひとり」の生き方や「ひとりひとり」自身は「関係」によって変わる。家族、クラス、部活、バイト先、地元とツレなど様々な「関係」で役割や自分自身を演じながら生きている。人間は基本的に「関係」から踏み出して生きることはできない。人間は「関係」を生きる生物である。

 一方で、「関係」には前提に「ひとりひとり」の存在がある。「ひとり」しかいない世界には「関係」は存在しない。「ふたり以上」があって、はじめてそこに「関係」が生まれる。つまり、「ひとりひとり」が最初にあって、次に「関係」ができる。すると、「関係」が強く「ひとりひとり」に影響を与える。社会は「ひとりひとり」と「関係」との相互作用である。

<問題>
 では、社会の問題はどこにあるのか?それは「ひとりひとり」と「関係」の相互作用の間である。例えば障害者の差別の問題。五体不満足であるとか、盲目であるとか、それ自体は問題でなはい。「関係」が自分と違う存在を排除しようとしている価値観を持っているとか、社会のシステムや街のデザインが彼らに対応していないとか、そういう「ひとりひとり」と「関係」の状態や事象との間に生じる不調和が障害であり、問題なのだ。

 個人の問題は、社会の問題、すなわち「ひとりひとり」と「関係」における間に生じる不調和の問題が具体的に現れたものである。自殺問題一つとっても、「ひとりひとり」の自殺の集積がそれにあたるのではない。社会の視点で考えると、「ひとりひとり」と「関係」との間に自殺は生じる。うつだってそうだ。「関係」との不調和の中ではじめて生じる事象である。

<「ひとりひとり」が変わることは解決になり得るか>
 このように考えると、「ひとりひとり」が変わっても問題は解決しないことがわかる。すなわち、「ひとりひとり」と「関係」の両方にアプローチをすることで、その間の不調和をなくしていくことでしか本質的に「社会を変える」ことはできない。なぜなら、問題は「間」に存在するから。

 そろそろ「ひとりひとりが変われば社会は変わる」という安直な思想は吹き飛ばす必要があると思う。そんなものは迷信だ。

<「ひとり」が変わることの重要性>
 これは決して「ひとりひとりが変わることは無駄なことである」と言っているわけではない。あくまで、「ひとりひとり」と「関係」の両方へのアプローチが重要であるという話である。「ひとりひとり」が変わらずに「関係」が変わることはないし、「関係」が変わらずに「ひとりひとり」が変わることもない。「ひとり」が変わることは、大きない一歩であり、そして一歩でしかないということだ。それに、「ひとり」も変えられない人間や組織が社会を変えることはできない。

<具体的にどう解決するのか>
 ではどうするのか。これは個人的に、社会のあらゆる問題へのクスリは「対話」であると考える。あらゆる問題が「ひとりひとり」と「関係」との相互作用、間に存在するのであれば、その間の溝をなんらかの方法で埋めていく必要がある。その際、絶対的な正義は存在しない。どちらか一方に完全に合わせることが解決ではなく、共通了解をつくっていく必要がある。つまり、「対話」を通して、「関係」の各レイヤーが求めていることをすり合わせ、共通価値である新たな価値観や文化をつくっていくことが、一つの解決策ではないかと思う。

※この辺りをしっかり話すとボリュームがえげつないことになるので、この辺はまたの機会に記してみます
※僕自身の「対話万能主義」みたいなものにはうんざりしている部分もあるので、そこを適確に指摘していただけたら嬉しいです

<自分はどうするのか>
 「対話」を実践していくことと「対話の文化」をつくること。今はまだ中途半端になっていて、自分を傷つける心づもりができておらず、自分が一定のライン以上傷つかないように「対話」を実践しているように感じる。「傷ついても大丈夫」というマインドセットと自分の思想をより磨いていくこと、頭の回転を速くすることなどが「対話」の実践を手伝うと思う。

 「対話の文化」つくりについては、「関係」へのアプローチに当たる。ただ、具体的に詰めていく必要があるなあというところかなと。

そしてなにより、自分が強みであり趣味でもある「ひとりで腰を据えてじっくり考え、文章にすること」を磨き続けて、たまに発信していくようにしていきたい。

「なるべく平易に書くぞ!」と意気込んだものの、後半で力尽きて抽象度が上がっていますが、ここまで読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。

何か考えることがあった人は、是非まずはコメント欄で「対話」しましょう。

なんでそんな活動してるん?に対する暫定的回答

 「なぜそういう活動してるのか?」という問いを大学1年生の時からしばしば受け続けている。そういう活動とはボランティアだったり、学生団体だったり、インターンだったりのことを指していると思われます。また、そのような問いを投げかけてくる人は大体2通りかなと思っていて、1通り目は「高校時代の僕を知っていて、その変化に違和感を感じている人」で2通り目は「大学での僕の意識の低さを受けて、いわゆる意識が高い活動に勤しむ僕をイメージできない人」。前者はなぜか人の変化が受け入れられない、多分頭が固くて固定観念にガチガチにかためられた人で、後者は自分が知っている情報が相手の全てあるいは重要な部分だと思っている人なのかなと解釈しています。

 

 まあそんなことはどうでもよくて、「なぜ?」とよく問われるからこそ(その質問の意図が理由を聞いているわけではないにしろ)、ずっとその理由を考えてきました。それが最近まとまってきたので言語化しときます。(逆に言うとそれだけです)

 

 

 結論から言うと「自分のように『学校に通い卒業すること』に違和感を感じていつつも、他の選択肢を知らなかったり自信がなかったりで諦めて学校に通い続ける人達がやめても大丈夫なセーフティネットを作りたい」っていう感じです。もう少し抽象化をすると「多様性が認められる社会で、みんなが自分に価値が有ると思って生きれるようにしたい」というのが、暫定的な回答。

 

 どこがどう対応しているのか説明しておくと、「多様性が認められる社会」というのは例えば「不登校など一定数存在していてゼロにはならないような学校にいきたくない人がやめれるような社会」という風に対応していて、「自分に価値が有ると思って生きれる」というのは「やめても大丈夫」=「学校以外でも受け入れてくれる場所があれば自分に価値があると思える」という解釈で対応しています。

 

 僕自身がものすごい違和感を感じながら学校に通っていました。学校はほとんど監獄だなあと日々感じていて、なぜ先生はあんなに必死になって僕らの個性を潰しある一つの優等生像への画一を目論んでいるのかが理解できませんでした。「辞めてえなあ」とか「行く意味ないなあ」とか日々感じていたけど、「辞めて人生どうするの?」と考えると当時の僕は「辞めたら人生終わりでしょ」と答えていました。「辞める」なんて選択肢はなかった。今でこそ「ちゃんと卒業してよかった」と思っているけど、当然ながら僕は「学校を辞めていない人生」を経験していないので比較ができません。もしかしたらそっちのほうが自分にとっていい人生だったかもしれない。でも、あまりに今の日本ではあまりにもリスクが大きすぎます。

 

 また、僕には自信がありませんでした。運動はもともと得意とは言えず、高校に入って勉強する意味がわからなくなったことをきっかけに褒められる対象であった勉強も「できないこと」になりました。勉強とスポーツの2つの軸でしか評価がされない学校においては僕の肩身は狭くなる一方でした。評価されなくなった僕がどうしたかというと、ほとんど反動形成のような行為に終始していて禁止されているアルバイトをしまくったりピアスを開けたり髪の毛を染めたりしたわけです。「みんなと違う道を行く」ことで評価される気がしたのかもしれないが、とりあえずそんなことで僕の低い自己評価や自己肯定感が高まることはなく、ずるずると自堕落な生活をしていました。もしあの時学校が「人前で喋るのうまいやん!」とか「鋭い意見をいうねー」みたいに僕を評価して受け入れてくれる先生がいれば変わったのかなあと思うわけです。

 

 上のような経験があるからこそ、「逃げれる場所」があってそこは「社会的に認められ」ていて、そこでは「誰もが受け入れられる」場所であればなあと、思うわけです。そうすれば、「こんな僕でもいいんだ」って思えるようになって、それは自信とか自己肯定感とかを高め、学校なんて行かなくても自立した一人の大人になれるのではないかあと、思うわけです。そんなことを考えながら生きてます。

 

推敲はおろか見直しすらしてない文章を最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

今日、教育系のイベントに参加して、「あ、今の内に暫定の回答を言語化しとかねば」と思い至ったので投稿。このくらいのやる気と雑さで投稿できるといいね!

他者理解をどう実践するか〜宗教への思索を通して〜

 9.18〜9.22でたった4泊5日ですがマレーシアに行ってきました。目的は僕たちは僕たちは特別プログラム(法経連携プログラム)で行っている研究のアウトプットを英語でプレゼンし、現地の人たちも同じくプレゼンをするので、お互いに質疑応答まで行う学術交流といったところ。おまけで文化的交流(現地の遊びしましょうみたいな)とシンプルすぎる観光もあった。

 

 個人的に日本を出るのは初めてだったので、日本とは違うことや同じこと全てに驚く事や感心する事、嘆くこともたくさんあった。特に自分の英語力の低さには目も当てられないという感じであったがそれはさておき。

 

 今回の研修で一番違和感を覚えたのが、イスラム教信者の存在であった。彼女らが頭に巻くその"布"がわかりやすく視覚に刺激を与えるのも要因の一つではあろうが、僕が日常目にする女性とは全くことなる風貌であるという事実以上に違和感を覚えたのは宗教の存在であった。また例えば、ターバンを巻いた女性と巻かざる女性がなんの障壁も感じていないかのように親しげに話す様子であった。

 

1.イスラム教という宗教

 マレーシア有数の観光地、ピンクモスクにてイスラム教の話をガイドさんが話す。彼が言うに、イスラム教は入ると抜けれないので基本的に数が減らない。結婚はイスラム教同士でしか認められず、イスラムの女性に惚れ結婚したいなら入信するしかない。また、その子供はイスラム教である。女性はご存知の通り布を巻いる。性別を問わずビールは飲めないし豚肉も食べれない。今思うとイスラム教のよくなさそうなところばかり聞かされたような気がするが、ガイドさんは私怨をお持ちなのだろうか。

 このようにいわゆる「普通」ではないような感じがするこの宗教以外にも、マレーシアには中華系の仏教徒やインド系ヒンドゥー教など様々だが、彼ら彼女らはそのような違いはないかのように会話し、笑い合う。

 疑問に思ったので、素直に「彼は君とは違う宗教なようだけど、その辺はどう受け入れてるの?」と聞いて見ると、彼は笑顔で当たり前のように「確かに信じる神は違うかもしれないけど、彼は彼だからね。あんまり関係ないよ。」と答えた。なるほど、と感服した。

 

2.日本における宗教観

 日本人は宗教に苦手意識を抱いている。宗教と聞くと、過去に何悶着かあった特定の宗教を思い浮かべ、なんだかうさんくさいものである気がしたり、危険な思想のように感じる。その理由は日本人が「無宗教」だからである。

 「無宗教」と鉤括弧付きで示したのは、本当は日本人は文字通り無宗教ではないからだ。そもそも宗教とは特定の神を信仰するという意味ではない。宗教には特定の神を信仰する「創唱宗教」と特定の神は信仰しない「自然宗教」とがある。正しくは、なにかしらの神を信仰する心そのものが宗教なのである。なので、クリスマスにはキリスト生誕を祝ったり、正月には神社に初詣に行ったり、人が亡くなると先人の教えの通り49日や1回忌などで坊さんを呼んだりするわけだ。これはそれぞれの場面で特定の神への信仰とはいわずとも、敬意を示して儀礼を行っていると言える。

 日本人が「無宗教」だと思っている背景には、近代化の時代における政府の政治的運動が存在する。近代化の過程で、欧米からキリスト教の禁制を指摘されたが、国民(当時は臣民)をうまく統制するには天皇を神とした新たな宗教へと国民を誘うのが手っ取り早かったのだ。政府は対国外には宗教の自由を提示しておきながら、一方で国内ではあえて宗教については触れない(国民はまだキリスト教は禁制だとおもっている)状況を保ち、ダブルスタンダードでなんとかやってのけた。このような背景で、日本人は特定の宗教的な神を持たず、天皇を信仰するようになった。(これが後の戦争で悲劇を量産する)つまり、現在の日本の宗教観は天皇中心の教化運動の頓挫に端を発している。

 つまり、日本は実は無宗教ではなく、立派な自然宗教を信仰する国家なのだ。一般に抱えられている宗教観は偏見でしかなく、「無宗教」だと思っていた僕たちも自然宗教徒として、他の宗教の人々の気持ちを理解できるかもしれない。マレーシアの彼らは「他宗教の人間のことも理解できる」という共通認識がベースにあるのであろう。だから、「人が何を信じているか」ではなく「その人が誰であるか」が大事だと言ったのだろう。

 

3.価値観でも同じこと言える

 宗教の分析も面白いが、今回僕が強く伝えたいのが、以上のことが価値観についても言えるのではないかという点である。世の中には本当に多様な価値観が存在するなと20歳ペーペーの僕でも思うんだから、その想像を絶する多様さなんだろう。その価値観は主にその価値観を持つ人間の経験に大きく左右されている。なので、全く違う経験をした人間はわかりあえないというのが通説である。ワンピースのドフラミンゴだって「戦争をしらねえガキと平和をしらねえガキの価値観は違う...!」みたいなこと言ってたし。

 しかし、「無宗教」だと思っていた日本人も歴史(=経験)を紐解いてみたら立派な宗教徒であった。つまり、全く違う経験をしていても、その価値観は理解できるのではないか。なぜなら 、経験が価値観になるには、「経験の解釈」があり、「経験を自分なりにインプットする」という過程が存在するからである。「無宗教」の例で言うと、特定の神を信仰してこなかった歴史を見て、「イエスキリストみたいな特定の神を信仰しておらず、宗教心とは特定の神を信仰する心だ」という解釈を施すと「日本人は無宗教である」という結論になる。一方で「宗教は特定の神の信仰を要求するわけじゃないし、僕たちは葬式とか初詣とか大事にする」という解釈を加えると、全く同じ経験から「日本人は無宗教ではない」という結論を得られる。

 とどのつまり、価値観は経験ではなく、「経験をどう感じるか」や「経験に対してどう考えるか」に依存する。これは見落としがちではあるが、重要な真理だとこの頃思っている。

 嫌いなA君、いけすかない上司のBさん、理解できないポンコツ後輩Cさんもみんな、見方を変えると理解できるかもしれない。すなわち、その人がどんな経験をしたかとか何をしたかという事実で判断するのではなく、「どう解釈しているのか」「何を考えているのか」に目を向けることで、理解の可能性は飛躍的に高まる。

 とはいえ、それを実践するのは容易いことではない。むかつく人はやっぱりむかつくだろう。ただ、前半に挙げたマレーシアンが非常にシンプルなヒントをくれている。それは「彼は彼である」という考え方である。他者を行動や思考レベルで判断するのではなく、「存在」として受け入れること。「山田くんが何をしたかという事実」ではなく「山田くんが山田くんである事実」、それを出発点として初めて他者理解への道は開けるのではないか。アルフレッド・アドラーも同様のことを述べていた。

 

もし、それが実践できたら、もっと他者の理解に努めようと思えるようになれば、駅員に怒鳴るおじさんも国家主義の不動産王もゲスい不倫したやつも覚醒剤でパクられた元球界の星も、理解できるかもしれない。

 

いや、やっぱりそれは無理かもしれない。 

 

 

 

 

もう少し軽いテーマで、頻度を多くして更新したいと思う...

「負けたことがあるというのが いつか、大きな財産となる」

「負けたことがあるというのが いつか、大きな財産となる」
 
 山王高校、作中ではいわゆる「常勝チーム」として描かれる高校が、格下である主人公桜木花道が所属する湘北に敗北を喫した時に、山王を率いる堂本監督はこう言いました。 SLAMDANKというのはご存知の通り、高校バスケットボールを舞台に描かれたスポーツ漫画です。山王は常勝のエリートチームであるので、観客や高校バスケのファン、そして他校は、当然山王が勝つものだと信じて疑いません。このような状況での予想外の死闘、そして敗北がこの発言の背景にあります。
 
僕も常勝とまでは言いませんが、今までの人生本当に勝ちたいと思った勝負には負けたことはありませんでした。高校受験や大学受験、アルバイトに恋愛、役職、趣味など、自分が勝ちたい/やりたいこと/欲しいものは手にしてきました。もちろん、家庭環境に恵まれていたのも大きいとは思いますが、考えることを大切にしているからだと思っています。
 
 しかしこの間、本気の勝負に負けました。僕が本気で行きたいと思っていたインターンに落ちたのです。
 
 食わず嫌いであまりいくつもりのなかったなかで、調査の結果たった2つだけ受けることにしたインターンのうちの一つでした。しかも、より参加への意欲が高い方に落ちてしまったのです。つまり、負けたのです。負けの定義はともあれ、少なくとも当インターンに合格した数十人に、ある評価基準で劣ったのです。
 
 堂本監督なら、「いつか財産に…」といってくださるかもしれません。しかし、そんな悠長に財産の獲得を待っていていいのであろうか。むしろ自発的に今回の「負け」について分析することが今後の「勝ち」に繋がるではないのであろおうか。そういえば、山王は湘北との試合前、相手が隠したであるにも関わらず、湘北の試合ビデオを何度も見て、マッチアップの相手を徹底的に分析し、さらには「仮想湘北」(というにはあまりにも強すぎる大学オールスター並みのチーム)との練習試合さえしていました。よし、山王に自分を重ねながら、猛省を行おう!と今回久しぶりに筆をとりました。
 
 前置きが長いですが、進みます。
 
 さて、分析に入りましょう。まずゲームを整理します。今回試合は3試合ありました。①テストセンター②エントリーシート(ES)③面接 の3つで、③の面接は3回ありました。おそらく、テストセンターとESはふるいにかけてるだけなので、僕の直接的な敗因ではなさそうです。なので、③の面接について、ⅰなにを見られていたかⅱなにが足りていなかったかⅲこれからどうするか の3段階で考えていきます。
 
 
 
ⅰなにを見られていたか
 3回の面接で見られていたのはa本気度b自己認知力 の大きく分けて二つだと思っています。志望動機の類は一切聞かれず、「自分がどんな人間か」「どんな人生を生きてきたか」を徹底的に深掘りされるような面接であったからです。a本気度については、インターンに対しての本気度というより、「これまでの人生どれくらい本気で生きてきたか」というイメージです。b自己認知力は読んで字のごとく「自分のことどれだけわかってるか」というイメージです。
 
 
 
ⅱなにが足りていなかったのか
 a.b両方ともバランスよく足りていなかったと感じています。どちらももう少し要素分解できると思うので、分けて考えます。
 
 
a本気度
 これは「本気の経験」と「本気を伝える力」があると思っています。前者が足りないのはこれからがんばろうとしかいえないので置いておきますがんばります。僕はむしろ後者に課題があると思っています。面接においても、自分なりに「本気」の経験を話しているのに、どこかで詰まったり言葉選びに時間を要したりしました。「本気ではなかったから」という理由も考えられますが、違う気がします。なぜなら、もとより自己開示と自己表現は自分にとって往年の課題だからです。
 
 自己表現が苦手と聞いて疑問に思う方もいるかもしれません。わりと考えたことははっきりいうタイプであるからです。僕は、自分以外のものに対する考えや意見をロジカルに述べることはわりと得意なのです。ここでいう自己表現は、ものや自分自身に対する感情や自分自身そのものを表現することを指します。これは、本当に苦手なのです。
 
 
b自己認知力
 これについても「自己分析の精度」と「自分自身を伝える力」があると思います。後者が僕に足りていないのはaでも述べた通りです。じゃあ「自己分析」は大丈夫なのかというと、ところがどっこいこれが微妙なのでした。
 
 面接において、徹底的に自分の過去を深堀されたのですが、小中学校時代についてはほとんど答えることができませんでした。高校から現在はすでに自己分析はすんでいました。なぜなら、以前関わっていたカタリバというキャリア教育事業で「自分の経験を紙芝居におとしたもの」を作っていたからです。これは一般に期間にして1〜3ヶ月、自己分析も相当深いものが要求されます。この紙芝居のメインストーリーが高校から大学の期間にあたるので、該当範囲の自己分析及び表現は上手くこなせます。しかし、小中に関してはボロボロでした。「小学校のとき最も印象にのこったことは?「そのときどんな気持ちだった?」「中学校で一番精力的取り組んだことは?」「中学で自分が変わったと思う出来事は?」などと聞かれたものの、「小中とか関係ねええ」とか思いながら答える始末です。すると、「なぜ?」と5段階くらい聞かれます。これはつらい。小中とかまじでなんも考えてないハッピーボーイやったからな。
 
 しかし、質問の返答に苦心する中で、一つの事実が分かりました。小中の経験も、今の自分に大きな大きな影響を与えているということです。大学での経験を話すと、面接官に「君は人の想いに触れたり、自分の想いを表現できるときに喜びを感じるみたいだね。それはどうして?」と聞かれました。考えたこともなかった、とかなり時間を使って思案した結果出てきた言葉は「小さいときに転校を繰り返したから、自然とその場の空気が求める発言をするようになり、あまり自分の本音をいわなかったからですかね。そうすると友達ができたので…」
 自分で言ってかなり納得しました。僕は転勤族でした。その過去はかなり自分に大きな影響を与えているということに改めて気付きました。自己分析が済んだと思っていた要因である紙芝居も、対象が高校生であることから自己分析の対象範囲も自然とその時期に寄っていたのでしょうか。作成当時、物理的にも精神的にも時間がなかったことも理由として考えられます。
 とりもなおさず、「自己認知力」についてはより包括的に自分自身について見つめ直す必要があるということがわかりました。
 
 
 a.bをまとめると、僕に足りていなかったのは
①より包括的で深い自己分析
②①を伝える力   の二つです。
 
これをもとに、これからどうするのかを考えました。
 
ⅲこれからどうするか
 ⅰⅱを元にこれからどうするかを考えてみました。①について
・再度自己分析
・いわゆる自分探しの旅
の2つです。自己分析手伝ってくれる方は大募集です。笑 自分探しの旅については思いつきかつ半ばふざけて言っていますが、結局大学生のうちにやりたいことのうちの一つである一人旅も敢行できていないので、これを機にやってみます。なるべく今住んでいる地域と性質が異なるほうがよいと思っています。それこそ、海外のような。両者とも、実行できればひとまず成功です。
 また、②については
・1日1回言いにくい本音を言ってみる
・オフィシャルな表現の練習としてたまにブログをつける
の2つです。後者はブログが卒業まで続けば成功にします。前者は定量的に測るのは難しいですが、「自分が本音を言えた」と寝るときに思えたら成功とします。やや雑ですが、少しずつかんばります。
 
 
そんなこんなで、このブログは生まれました。
自己表現のツールとして、使っていきたいです。気が向いたら読んでください。テンションとしては、それくらいで書こうと思っています。これまでのfacebookより頻度は多く、かつテンションは同じくらいで。

 

 

営業チックな締めになってしまいましたが、まあいいです。
読み返すと、相変わらず後半になるに従い粗さが目立ちますが、まあいいです。
 

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「はいあがろう。負けたことがあるというのが いつか、大きな財産となる。」
堂本監督の言葉をしみじみと感じながら、筆を置くことにします。