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独白

しがない大学生の独りよがりな独り言です

他者理解をどう実践するか〜宗教への思索を通して〜

 9.18〜9.22でたった4泊5日ですがマレーシアに行ってきました。目的は僕たちは僕たちは特別プログラム(法経連携プログラム)で行っている研究のアウトプットを英語でプレゼンし、現地の人たちも同じくプレゼンをするので、お互いに質疑応答まで行う学術交流といったところ。おまけで文化的交流(現地の遊びしましょうみたいな)とシンプルすぎる観光もあった。

 

 個人的に日本を出るのは初めてだったので、日本とは違うことや同じこと全てに驚く事や感心する事、嘆くこともたくさんあった。特に自分の英語力の低さには目も当てられないという感じであったがそれはさておき。

 

 今回の研修で一番違和感を覚えたのが、イスラム教信者の存在であった。彼女らが頭に巻くその"布"がわかりやすく視覚に刺激を与えるのも要因の一つではあろうが、僕が日常目にする女性とは全くことなる風貌であるという事実以上に違和感を覚えたのは宗教の存在であった。また例えば、ターバンを巻いた女性と巻かざる女性がなんの障壁も感じていないかのように親しげに話す様子であった。

 

1.イスラム教という宗教

 マレーシア有数の観光地、ピンクモスクにてイスラム教の話をガイドさんが話す。彼が言うに、イスラム教は入ると抜けれないので基本的に数が減らない。結婚はイスラム教同士でしか認められず、イスラムの女性に惚れ結婚したいなら入信するしかない。また、その子供はイスラム教である。女性はご存知の通り布を巻いる。性別を問わずビールは飲めないし豚肉も食べれない。今思うとイスラム教のよくなさそうなところばかり聞かされたような気がするが、ガイドさんは私怨をお持ちなのだろうか。

 このようにいわゆる「普通」ではないような感じがするこの宗教以外にも、マレーシアには中華系の仏教徒やインド系ヒンドゥー教など様々だが、彼ら彼女らはそのような違いはないかのように会話し、笑い合う。

 疑問に思ったので、素直に「彼は君とは違う宗教なようだけど、その辺はどう受け入れてるの?」と聞いて見ると、彼は笑顔で当たり前のように「確かに信じる神は違うかもしれないけど、彼は彼だからね。あんまり関係ないよ。」と答えた。なるほど、と感服した。

 

2.日本における宗教観

 日本人は宗教に苦手意識を抱いている。宗教と聞くと、過去に何悶着かあった特定の宗教を思い浮かべ、なんだかうさんくさいものである気がしたり、危険な思想のように感じる。その理由は日本人が「無宗教」だからである。

 「無宗教」と鉤括弧付きで示したのは、本当は日本人は文字通り無宗教ではないからだ。そもそも宗教とは特定の神を信仰するという意味ではない。宗教には特定の神を信仰する「創唱宗教」と特定の神は信仰しない「自然宗教」とがある。正しくは、なにかしらの神を信仰する心そのものが宗教なのである。なので、クリスマスにはキリスト生誕を祝ったり、正月には神社に初詣に行ったり、人が亡くなると先人の教えの通り49日や1回忌などで坊さんを呼んだりするわけだ。これはそれぞれの場面で特定の神への信仰とはいわずとも、敬意を示して儀礼を行っていると言える。

 日本人が「無宗教」だと思っている背景には、近代化の時代における政府の政治的運動が存在する。近代化の過程で、欧米からキリスト教の禁制を指摘されたが、国民(当時は臣民)をうまく統制するには天皇を神とした新たな宗教へと国民を誘うのが手っ取り早かったのだ。政府は対国外には宗教の自由を提示しておきながら、一方で国内ではあえて宗教については触れない(国民はまだキリスト教は禁制だとおもっている)状況を保ち、ダブルスタンダードでなんとかやってのけた。このような背景で、日本人は特定の宗教的な神を持たず、天皇を信仰するようになった。(これが後の戦争で悲劇を量産する)つまり、現在の日本の宗教観は天皇中心の教化運動の頓挫に端を発している。

 つまり、日本は実は無宗教ではなく、立派な自然宗教を信仰する国家なのだ。一般に抱えられている宗教観は偏見でしかなく、「無宗教」だと思っていた僕たちも自然宗教徒として、他の宗教の人々の気持ちを理解できるかもしれない。マレーシアの彼らは「他宗教の人間のことも理解できる」という共通認識がベースにあるのであろう。だから、「人が何を信じているか」ではなく「その人が誰であるか」が大事だと言ったのだろう。

 

3.価値観でも同じこと言える

 宗教の分析も面白いが、今回僕が強く伝えたいのが、以上のことが価値観についても言えるのではないかという点である。世の中には本当に多様な価値観が存在するなと20歳ペーペーの僕でも思うんだから、その想像を絶する多様さなんだろう。その価値観は主にその価値観を持つ人間の経験に大きく左右されている。なので、全く違う経験をした人間はわかりあえないというのが通説である。ワンピースのドフラミンゴだって「戦争をしらねえガキと平和をしらねえガキの価値観は違う...!」みたいなこと言ってたし。

 しかし、「無宗教」だと思っていた日本人も歴史(=経験)を紐解いてみたら立派な宗教徒であった。つまり、全く違う経験をしていても、その価値観は理解できるのではないか。なぜなら 、経験が価値観になるには、「経験の解釈」があり、「経験を自分なりにインプットする」という過程が存在するからである。「無宗教」の例で言うと、特定の神を信仰してこなかった歴史を見て、「イエスキリストみたいな特定の神を信仰しておらず、宗教心とは特定の神を信仰する心だ」という解釈を施すと「日本人は無宗教である」という結論になる。一方で「宗教は特定の神の信仰を要求するわけじゃないし、僕たちは葬式とか初詣とか大事にする」という解釈を加えると、全く同じ経験から「日本人は無宗教ではない」という結論を得られる。

 とどのつまり、価値観は経験ではなく、「経験をどう感じるか」や「経験に対してどう考えるか」に依存する。これは見落としがちではあるが、重要な真理だとこの頃思っている。

 嫌いなA君、いけすかない上司のBさん、理解できないポンコツ後輩Cさんもみんな、見方を変えると理解できるかもしれない。すなわち、その人がどんな経験をしたかとか何をしたかという事実で判断するのではなく、「どう解釈しているのか」「何を考えているのか」に目を向けることで、理解の可能性は飛躍的に高まる。

 とはいえ、それを実践するのは容易いことではない。むかつく人はやっぱりむかつくだろう。ただ、前半に挙げたマレーシアンが非常にシンプルなヒントをくれている。それは「彼は彼である」という考え方である。他者を行動や思考レベルで判断するのではなく、「存在」として受け入れること。「山田くんが何をしたかという事実」ではなく「山田くんが山田くんである事実」、それを出発点として初めて他者理解への道は開けるのではないか。アルフレッド・アドラーも同様のことを述べていた。

 

もし、それが実践できたら、もっと他者の理解に努めようと思えるようになれば、駅員に怒鳴るおじさんも国家主義の不動産王もゲスい不倫したやつも覚醒剤でパクられた元球界の星も、理解できるかもしれない。

 

いや、やっぱりそれは無理かもしれない。 

 

 

 

 

もう少し軽いテーマで、頻度を多くして更新したいと思う...