独白

しがない大学生の独りよがりな独り言です

なんでそんな活動してるん?に対する暫定的回答

 「なぜそういう活動してるのか?」という問いを大学1年生の時からしばしば受け続けている。そういう活動とはボランティアだったり、学生団体だったり、インターンだったりのことを指していると思われます。また、そのような問いを投げかけてくる人は大体2通りかなと思っていて、1通り目は「高校時代の僕を知っていて、その変化に違和感を感じている人」で2通り目は「大学での僕の意識の低さを受けて、いわゆる意識が高い活動に勤しむ僕をイメージできない人」。前者はなぜか人の変化が受け入れられない、多分頭が固くて固定観念にガチガチにかためられた人で、後者は自分が知っている情報が相手の全てあるいは重要な部分だと思っている人なのかなと解釈しています。

 

 まあそんなことはどうでもよくて、「なぜ?」とよく問われるからこそ(その質問の意図が理由を聞いているわけではないにしろ)、ずっとその理由を考えてきました。それが最近まとまってきたので言語化しときます。(逆に言うとそれだけです)

 

 

 結論から言うと「自分のように『学校に通い卒業すること』に違和感を感じていつつも、他の選択肢を知らなかったり自信がなかったりで諦めて学校に通い続ける人達がやめても大丈夫なセーフティネットを作りたい」っていう感じです。もう少し抽象化をすると「多様性が認められる社会で、みんなが自分に価値が有ると思って生きれるようにしたい」というのが、暫定的な回答。

 

 どこがどう対応しているのか説明しておくと、「多様性が認められる社会」というのは例えば「不登校など一定数存在していてゼロにはならないような学校にいきたくない人がやめれるような社会」という風に対応していて、「自分に価値が有ると思って生きれる」というのは「やめても大丈夫」=「学校以外でも受け入れてくれる場所があれば自分に価値があると思える」という解釈で対応しています。

 

 僕自身がものすごい違和感を感じながら学校に通っていました。学校はほとんど監獄だなあと日々感じていて、なぜ先生はあんなに必死になって僕らの個性を潰しある一つの優等生像への画一を目論んでいるのかが理解できませんでした。「辞めてえなあ」とか「行く意味ないなあ」とか日々感じていたけど、「辞めて人生どうするの?」と考えると当時の僕は「辞めたら人生終わりでしょ」と答えていました。「辞める」なんて選択肢はなかった。今でこそ「ちゃんと卒業してよかった」と思っているけど、当然ながら僕は「学校を辞めていない人生」を経験していないので比較ができません。もしかしたらそっちのほうが自分にとっていい人生だったかもしれない。でも、あまりに今の日本ではあまりにもリスクが大きすぎます。

 

 また、僕には自信がありませんでした。運動はもともと得意とは言えず、高校に入って勉強する意味がわからなくなったことをきっかけに褒められる対象であった勉強も「できないこと」になりました。勉強とスポーツの2つの軸でしか評価がされない学校においては僕の肩身は狭くなる一方でした。評価されなくなった僕がどうしたかというと、ほとんど反動形成のような行為に終始していて禁止されているアルバイトをしまくったりピアスを開けたり髪の毛を染めたりしたわけです。「みんなと違う道を行く」ことで評価される気がしたのかもしれないが、とりあえずそんなことで僕の低い自己評価や自己肯定感が高まることはなく、ずるずると自堕落な生活をしていました。もしあの時学校が「人前で喋るのうまいやん!」とか「鋭い意見をいうねー」みたいに僕を評価して受け入れてくれる先生がいれば変わったのかなあと思うわけです。

 

 上のような経験があるからこそ、「逃げれる場所」があってそこは「社会的に認められ」ていて、そこでは「誰もが受け入れられる」場所であればなあと、思うわけです。そうすれば、「こんな僕でもいいんだ」って思えるようになって、それは自信とか自己肯定感とかを高め、学校なんて行かなくても自立した一人の大人になれるのではないかあと、思うわけです。そんなことを考えながら生きてます。

 

推敲はおろか見直しすらしてない文章を最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

今日、教育系のイベントに参加して、「あ、今の内に暫定の回答を言語化しとかねば」と思い至ったので投稿。このくらいのやる気と雑さで投稿できるといいね!